紹介


1984年夏合宿 山口清吾先生のご指導
1984年夏合宿 山口清吾先生のご指導

 2018年(平成30年)で創部55年を迎えた我が生田合気道部は、1962年(昭和37年)、当時農学部1年生であった鈴木捷一郎先輩が、都内の道場で稽古してきては学生仲間に教えていたのが、徐々に本格的になり、正式には1963年(昭和38年)1月、師範として合気会本部道場の山口清吾先生を、また初代会長に農学部の笠原茂先生を、顧問に同じく農学部の滝沢寿雄先生をお迎えして、わずか5~6名の部員でスタートしました。

 

 翌1964年(昭和39年)に工学部が本校から生田校舎へ移転したのに伴い、それまで農学部学生中心であった部は4月から工学部1年生部員を新たに迎えることになり、ここに農・工両学部にまたがり、かつ1年生から4年生までの部員が初めて勢揃いした武道系の部としての形が整い、今日への歩みが始まったのです。

 

 創部から3年目の1966年(昭和41年)には部員数80数名を有する大世帯へと発展しました。この部員数は、当時、同好会であった現体育会合気道部にとって、相当魅力的な数字だったようです。共に協力して体育会を目指そうと誘われたこともありました。一方、部員数が増してくると、必然的に部の運営方法や規則、体育会の件を含めた将来への展望等、様々な角度からの議論が必要となります。1966年(昭和41年)から1968年(昭和43年)にかけては、これらの問題に対する議論の時代でした。規則はなるべく簡単なものにしたいというのが、部員の基本的な考え方でした。その根底は、部員各自が感じつつあった武道の精神であったように思います。農・工学部では、実験・実習系の科目が多いことを考慮して、部としての稽古時間は昼休みの1時間だけとしました。しかし、もっと稽古をしたいと考えている部員に対しては、本部道場等、外の道場に通うことの便宜が与えられ、また部員有志による朝稽古という手段もありました。 これらへの参加・不参加は、全く部員各自判断に任せていたわけです。体育会への昇格の誘いに関する我々の結論は、これらの議論の当然の結果として、あえて同好会のまま進むことが我々が目指している部活動を実現する最良の方法であるというものでした。

2016年度夏合宿より
2016年度夏合宿より

  この時期、稽古はレスリング部の道場を拝借して行っていました。部の将来に向けて、道場の確保は部員の大きな夢でした。また、学生会館が新築されるという情報があり、この中に部室を確保することは、我が部のみならず生田地区の他の同好会にとっても不可欠なことでした。このような観点から、生田地区の他の同好会に呼び掛けて体育同好会連合会生田支部を結成・設立し、我が部から初代相談役、委員長を選出する等、生田地区同好会の発展にも力を注いでいます。

 

 会長は第2代として工学部電気工学科の田中庄蔵名誉教授をお迎えし、そして第3代会長には我が部第1期OBでもある理工学部情報科学化の向殿政男教授に、第4代会長には第5期OBである理工学部機械情報工学科 土屋一雄教授に、そして第5代会長には第22期OBである理工学部情報科学科 井口幸洋教授へと引き継がれております。現在、OB・OG総数は約500名を数え、OB会の運営も益々充実してきています。これらは、創部当初からの山口清吾先生による厚きご指導の賜であり、また1996年(平成8年)に山口先生がご逝去された後を引き継いだ第7期OBの安野正敏先生(公益財団法人 合気会 合気道本部道場指導部師範)による厳しい稽古を通して培われた絆の結果とも言えるでしょう。卒業後も稽古を続けて高段位を得たOBは相当の数に上り、安野先生を始め明治神宮武道場 至誠館 稲葉稔名誉師範など各地道場で師範、指導者として活躍する多数のOBを排出した事は我々の誇りです。本学教員として教育・研究に携わったいるOB(向殿元会長、土屋前会長、井口会長を含め、元建築学科教授:野口弘行、元機械工学科教授・副学長:伊藤光 の5名)の多いことも我が部の際立った特長です。

 

 生明祭では毎年演武会が盛大な中行われ、演武会後にはOBと現役部員の合同稽古が安野先生ご指導の下行われます。また、演武会・合同稽古後恒例のOB総会は、新旧OBと現役部員との交流の場となっています。現役部員とOBとの共同作業による文集「白雲なびく」の隔年発行や5年間隔で開催するOB会記念祝賀会も、OBと現役部員との連帯意識を育む良い機会となっています。

  • 1994年刊行「理工学部50年史」に掲載された第4期 久保田 俊 元OB会長の文章を現状に合わせて加筆・修正しました。

2018年11月3日

組織

 

沿革